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としまアートステーションYシンポジウムレポート

 

文化が地域になにをもたらすか

石幡:今のお話に関連すると、アートプロジェクトは田舎や地方でたくさん企画されてるけど、それを東京でやったらどうなるんだろう、という実験がとしまアートステージョン構想でもあるんです。都心でやるアートプロジェクトにはどういうものが求められているのだろうかと、いつも考えています。ですので、さきほどのさまざまなレイヤーがあるとか、異なるもの同士が隣り合わせでいる話は、としまアートステーション構想の全体を考える上ですごくつながってくる話だと思いました。

ちょっと視点を変えて、先ほど(注:シンポジウムの第一部)山本山田さんのプレゼンで不燃化の話もでてきましたが、まさに都市計画という分野において、建物の延焼を防ぐまちづくりは正しい論理だと思うんです。

でもやっぱり、そうした王道なアプローチではこぼれ落ちてしまう部分だったり、それによってないがしろにされてしまったりする部分に、どうやって光をあてていけるのか。そこの部分を救っていくことに、文化という手法でアプローチしていくのがこのYの裏テーマでもあると思うんです。

豊島区の文化政策は、まさに文化それ単体だけではなくさまざまな生活に関する領域に横串を刺すような、文化という価値観やアプローチを使って関わりをつくっていくところがある。物理的な隙間にアプローチしていくだけではなく、そういったテーマやセクションの隙間みたいなところに文化がアプローチしていく意味合いもある。そのあたりについて、ご意見やそれぞれの経験でこんな隙間にアプローチしているなどあれば、お話いただければ。

小川:コマーシャルギャラリーや美術館に対するものとして「オルタナティブ」という言葉がアートの世界ではよく言われたりします。ちょっと言い方が乱暴かもしれませんが、コマーシャルギャラリーは作品を売ることが目的の場所で、美術館は公に対してサービスを提供する場所と言えます。オルタナティブスペースはそのどちらでもなく、どちらでもできないことをやるから「オルタナティブ」と言われるのだと思う。

僕自身は自分のスペースをオルタナティブスペースと名乗ったことはありませんが、「東京のオルタナティブスペースといえばOngoing」といった流れで、取材を受けることがよくあります。一方は経済、一方は公共だとすれば、自分のスペースはお金でも地域への貢献でもない。中崎くんのように自分の好きなことを自分で責任を負って続けている、ただそれだけの場所なんですよね。

そういうものがどうやって継続していけるかに尽きる気がします。それは冒頭でも言いましたけど、やっぱりその活動を大切にしたい想いがどれだけあるか。豊島の話であれば山本山田さんの中にあるのか。「木賃」をひとつのキーワードにして、地域をどれだけ大切にしていきたいかを、形骸化せずにやれるかどうか。

地域と言うと、それだけ聞けば聞こえがいいじゃないですか。例えば僕だったら、日本でもっといいアートをつくっていく、みたいなことを言ったらすごく聞こえはいいけど、「そもそもアートってなんだろう」と疑うことをやめないんです。「自分たちにとってのアートとは」「この時代にとってのアートとは」「アートで何ができて何ができないのか」「どこまでアートとしてやっていいのか」。僕はアートを武器に生きているけど、自分のアイデンティティを常に疑い続けることが、形骸化しないでその活動を維持していく原動力になるんだと思っています。お金だけでなく、公共だけでもない、自分にとってのアートとはなんだろう、ってことを常に考えながらやることで、「やっぱまだつぶれちゃいけないな」とか、「まだこんなことができるかも」とか、そういうのを考えることできるんだと思います。

宮﨑:先日、HAGISOで建築家の西村浩さんをお呼びしたイベントの中で、彼が「隙間がすごく大事」って言ってたんです。つまり、隙間というのは、彼の表現だと今までは高度成長期とともに縦割の領域でそれぞれの分野で頑張っていたけど、そうした縦の領域ではなく横につなげないといけない状況になった。その間の溝のことを「隙間」と呼び、それをつなぐのが建築家の仕事だという話をしていました。僕自身が建築の立場として、自分で場所を持ってからすごく自由になったところがあって、今まで建築家がやらなければいけないと思っていたものとは違う形で、場をつくることができると感じた。

僕はどちらかというと好奇心だけでやっているんですけど、この場所がさらに違う価値を持つことを考えるのが楽しくてやっている感じがありますね。そういう意味で、今HAGISOを運営してておもしろいのが、空間的に分けられていた機能が時間的に切り替わることでおもしろい価値になると思っています。それこそ、美術館はあそこにいく、パフォーマンスはどこどこに行く、と空間的に分けられていたものが、同じ場所だけど時間によって全然違うものが行われることで別の価値が生まれてくることが、これからおもしろくなるのかなって思っています。

中﨑:文化ってよくわかんないけど、僕も、山本山田のお二人が言ってた不燃化ってわかるよね。やっぱりまちを歩いててあの密集した木造エリアで火事が起こったときのリスクを考えると、ある種の怖さもある。行政からしてみたら、災害や火災が起きたときに絶対に責められるしリスクがある。

一方で、全部が駐車場と高層マンションだけになった場所のつまらなさもすごくわかる。文化のおもしろいところは、振り幅だと思ってる。それがある種の豊かさだったり、そこじゃなきゃいけない色だったりが生まれてくると思う。

ほんとにだめなやつもいないと、おもしろいやつも来ない。例えばスペースで、うちはお金持っている人しかだめですよ、インテリの人しかダメですよって言ったらそんな都合のいいやつばかりが来るわけはない。そしたらすごくつまんないやつしか実は来なかったりする。逆に、なんでもいいですよ、誰でもおいでって言うとめんどくさい人が来るけど、おもしろい人も来る。そういうのが混じるからおもしろい。それって両方込みなんですよね。リスクとリターンじゃないけど、それがないとおもしろくない。でも、それが行政的なフレームにいくとやっぱりその両方のリスクを説明していくことは絶対難しくてすごくやりにくい。

でも、教科書通りの方法をするとさっきの不燃化みたいな話になるのはすごくわかる。けれども、そうじゃない僕らがおもしろいと思う論理はそこじゃないところにある。いろんな人たちが混じる状況は、すごく芸術的文化的な思考方法なんじゃないかなと思いますね。

だからといって、木賃みたいなものを完全に全部残したらいいかとそういうわけにも多分いかないのはわかっているので、どういう残し方や判断やリスクがあり、リスクとおもしろさをどう判断していくか、いろんな視点が入りながら落ち着くのかは、そのまちの個性や状況によるのかも。

小川:それって、一言でいうと「精神的な災害に備えている」って言えるのかもしれないですね。

中﨑:あ、でもそれはねえ、いい!

小川:無色透明な色の無い建物ばっかりが並んだときに、次は精神的な災害が襲ってきますよ、って言えるのかもしれない。どっちに備えるかって言ったときに、文化は「精神的な災害」を止めようとしている、みたいなことなのかもしれないですね。

 

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